「すまんが、ちょっとかわってくれんかね」
機関士の背中に神威の声がかかる。
「はい」
素直に従う機関士。足が少し震えている。
駅長が発車の合図をだす。
短く
「発車!」
とだけ喚呼する。
ホームの状態や、そのほかの運転支援を自然と大野機関士が行う。
神威は前だけを向いている。
次駅の確認
出発信号機の確認
この所作だけで芸術品だった。一勝地はかたずをのんで見つめる。
大野機関士がぼそっと、
「見てろ」
そう、一勝地に耳打ちする。それとほぼ同じタイミングで合川師匠も一勝地を見て静かにうなずく。
「次は音威母府3番!」
「シュッパァツ~シンッコオウゥ!!」
身体中に響いてくる神威の喚呼。先ほどまでの温和な古豪の鉄道員はどこへ消えた。
運転台にあるガラスというガラスがビリビリしている。
絶妙なタイミングで師匠が汽笛を鳴らす。
まるで何かの幕開けのようだ。
ふと、上音威母府の駅事務所がある反対のホームが目に入る。
駅職員、総出で敬礼をしている。
その場にいた近所の人も直立不動で列車を見送っている。
まだ一勝地には何が起こっているのか理解できない。
エアーが静かにこもっていく、衝動がほとんどなくブレーキの緩解を感じながら景色が微かに後ろへ去っていく。
師匠の動きがおかしい。さっきより動きが速い。
「ははは、あいさんありがとう。蒸気圧は良好だよ。楽しませてくれようとしなくていいよ。十分もう幸せだよ」
師匠はそう笑い飛ばす神威の方を見ない。
機関車が上音威母府構内を抜けた。下り坂を転がるように加速する。
速い。
あるとき、一勝地は自分の師匠、合川の噂をたまたま聞いたことがある。
・彼の焚くカマなら機関士がだれでも定時。
・通常の2倍以上の貨車を牽ける蒸気がつくれる。
全国の機関助士が競う石炭をくべる投炭競技会で過去最高得点を保持し、今も破られていない。最近は後進のためと全国競技会に出ていない。地区予選には機関区のメンツから強引に参加させられているが、いつも地区最高得点をたたき出すことが確定するところまで技能を見せたあとは、最後の最後でシャベルを手が滑らせたふりをして遠くにぶん投げるか、腰が痛いなどと言い、わざと失格や棄権になるのであった。若い奴らが、技量を持つ機関車乗りをこの最果ての地以外の場所で沢山目の当たりにし、何かを感じて帰ってきてほしい。それが彼の日頃からの願いであった。だから、全国大会への切符はいつも受け取らない。でも、若い奴と同じように鍛錬を重ね、そして技量は惜しみなく指導していた。
速度がのってきたタイミングで上音威母府まで運転していた大野機関士が唾を飲み込む。
そして神威機関士の右手が動く。
「シュー コツッ」
「シュー カチッ」
二本のブレーキ弁がそれぞれ操作された。
列車はなめるように下り坂を下っていく。
運転台は相変わらずの緊張が張り詰めている。
神威機関士がしみじみと左側の山を見ている。
ゆるい右曲線にさしかかる。運転台右側の助士席にいる師匠が前方注視をさりげなく行う。
神威の右手は最後に扱ったブレーキ弁ハンドルの上にある。
握ったり持ち方をかえたり。なんだかそのハンドルを愛おしそうにしている。でも、その角度は変わらない。さっきの操作で止めた位置でそのままに固定されている。
相も変わらず列車は速度を一定に保っているようだ。
見習とはいえ何度か、この区間に乗務していた一勝地は不思議だった。過去に組んだ機関士は、この区間で何度もブレーキ弁ハンドルを操作して速度を調整していた。その操作の度に、急に列車が早くなったり、遅くなったりすることが多少感じられた。
そういうものだと思っていたのに、なぜ神威さん何もしないのか?
まさか、この場にいる我々を試しているのか?
その謎の答えを安直に思いつく。
【機関士が突然体調不良になったときに、きちんと助けに入ることができるか?】
多分この抜き打ちテストのために、管理局から仕組まれた刺客に違いない。そのため、神威さんは何もしないんだ。見習だけど手を出した方がよいのかな?いや、ここは師匠に伝える?大野機関士に伝えるべきか?
「おう。見習い。名前なんていうんだ?」
神威機関士からの不意打ちの質問がとぶ。
狐につままれるかのように、一勝地はたじろぎながら、
「一勝地です。一つ勝つ土地の地でイッショウチです」
神威機関士は前方と左上の景色を注視したまま話し続ける。
「そうか……いい先生にあたったな。見習は師匠を選べない。師匠は見習との組み合わせに多少の口出しができるけどな。ともかく、その仕事の価値観を最初に見せつけることが出来るのは師匠だけだ。もちろん、本人の素質やまわりの先輩にも大きく影響されるだろう。しかし、師匠は師匠だ。作業やその考え方は自然と似る。その最初の入り口からの蓄積が数年後に力量として大きく表れてしまうものだ。最初から天武の才をもった乗務員なんかいない。積んでいけ。積んでいけよ。技をな。現状維持の乗務員なんぞ退化しているだけだからな」
話が終わると線路のジョイント音が2度ほどなった。
「おいっ!!」
合川師匠から声がふってくる。何か言うことないのかと言う意味が短い言葉に込められていた。
一勝地は「はい」と返事するのが精いっぱいだった。
そろそろ音威母府駅構内に入る。
「着線は音威母府3番」
この確認は一人静かに行われた。
腕木式信号が静かに構内の入り口を知らせていた。その現示に対して、荒々しい声がこだまする。
それを3人が静かに追いかける
「オトイモフゥ3バンッジョウナイィシンコウ!!」
「音威母府3番場内進行」
「音威母府3番場内進行」
「音威母府3番場内進行」
そろそろ左曲線で宗山本線の線路が現れて、天南線の方に寄ってくる。そして、やがて二つの線路は交わることになる。
一勝地は気付く。
ここまで、神威機関士は一度たりともブレーキ弁ハンドルを操作していない。最初にブレーキを機関車と客車に掛けて以降、なにもしていない。
そんなことありえない。
上音威母府からの勾配は確かに連続下り勾配だが微妙に‰の異なる坂の集合体である。
ずっと15‰などでキレイに一定で線路が敷設されているわけではない。ある一定の区間がほぼ同じ勾配があっても、途中から斜度はどんどん変化する。
そして、曲線が複数あるので半径ごとの曲線抵抗による速度変化、音威母府駅構内の転轍機による速度制限にその抵抗による速度変化がある。
さらに、駅構内はほぼ平坦であるから、下り坂と同じブレーキ力では当然すぐ列車は所定位置のはるか手前で停止してしまう。下り勾配用のブレーキは駅構内かそれまでに一度全部緩解させて、惰性で走行するのが当然と思ってきた。
しかし、目の前ではそれがおきている。一切ブレーキ弁を操作する気配がない。微妙に動かしているわけでもない。相変わらず右手は楽しそうにブレーキ弁ハンドル持ち手の金属部分を愛でている。そうブレーキはそのままかかり続けている。
宗山本線と天南線が交わる転轍機を通過する。転轍機の種類が異なるのもあるが、それにしても上音威母府駅構内進入時の不快な揺れはない。列車は峠を下っている時に比べて、確実に少しずつ速度が低下している。
音威母府駅の停止目標を一勝地は視認した。駅係員が直立不動で敬礼している。
「まさか……このままいくのか……」
長いホームの先端に機関車が差し掛かる。
なおも微かに減速を続ける。
速度が人の走る速度
歩く速度
そして少しずつ0km/hへ向かう。
「うそだろ……」
停止目標は一勝地達機関助士側からよく見えた。
「キィー」
スッと正確に誤差なく停止した。後ろに連結している車両からも押される衝動が一切ない。
静寂がほんの一瞬だけ運転台に訪れる。
夢でも見ているのか。なぜこんなことが出来るのだ。
神威機関士は完全に列車が停止したことを確認する。
そして、峠を下りだして最初にブレーキをかけて以来、初めてブレーキ弁ハンドルの位置を変えた。減圧していく音が心地よく聞こえる。そうやって、転動防止の追加制動を行いながら、
「音威母府20秒早着」
そう時計も見ないで3人にだけ聞こえるように喚呼をした。
なぜ分かるのか……
完全に心ここに在らずな3人に対して、運転席を離れながら静かに最後の言葉を述べた。
「すまんね。この20秒は私が機関車を降りるためにつくらしてもらったよ。ありがとう。いい時間だった。機関車乗りが出来て本当に良かった」
地面に降り立つと小屯別駅で最初に見せたような古参の鉄道員顔に戻り、音も立てずに静かに、振り返らずに機関車を離れていった。
その直後、一勝地と隣にいた大野機関士がふと時計に目をやる。
そう。その時計を確認した時間こそが音威母府駅到着時刻の正真正銘の定時だった。
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