乗務③−2 仁美幸線の男ー孤高の乗務

鉄道の運転士・車掌・駅で働く人を小説にしてみた

周囲の山々は、少しずつ雪解けが進み、ところどころに春の訪れを告げる若草色が顔を出している。

しかし、まだ残る冬の名残が、木々の枝に白く積もった雪として静かに佇んでいる。

空は薄い灰色に覆われ、遠くに見える山々の頂が霞んでいる様子は、まるでこの静かな世界を守るかのようだ。

さて、まもなく美辺渓駅が近づいてきた。

ついこの前、ビリッときたことがあった。

それ以来、軽い感電防止のためにマイクを持つ前には必ずハンカチを握り、その上からマイクを掴むようにしている。

今日も、華麗なる車内放送を……と思ったが、やめておこうかと思った。

そもそも、約15分前に美仁宇布を発車する際にすら、始発放送をしていない。

いわゆる「本日も仁美幸線をご利用くださいまして……」といういつものやつだ。

列車の窓から見える景色は、相変わらず人影もなく、

乗客よりもそのあたりを歩いてまわるキツネの方が多いのではないかと錯覚させる。

いや、正確には、この美仁深行きのキハには我々乗務員しかいないのだ。

「仁美幸線をご利用くださいまして……」も何もあったもんじゃない。客室には誰もいないのだから。

列車はゆっくりと進み、線路脇に生い茂る枯草が風に揺れ、その影が揺らめきながら車窓に映り込む。

美辺渓駅が近づくと、視界にその簡素なホームが入ってきた。

到着監視の態勢を取る。

扉を開けるかどうか少し悩む。

朝の一番以外でこの駅から乗り込む人を見たことがないし、そのまま通過してしまえば、燃料費やブレーキシュー代の節約になるのにと、ふと思う。

見習教習中に、師匠と一緒にこの区間を乗っていた時のことを思い出す。

その時も今と同じように、通過した方が良いのでは?とポロッと言ったことがあった。

師匠は真顔で、「タヌキが乗るかもしれないだろ。黙って、基本作業に集中だ」と返してきた。

いや、乗せんなや、たぬき。

列車はやがて静かに停車し、駅の周囲の静寂がより一層際立つ。

その静寂に気を使うように車掌スイッチを静かに扱う。

ホームに降り立ち一応周囲を見渡してみる。

誰かが走ってくるなら出来るだけ乗せてあげたい。

そんな優しさも兼ね備えている

彼の名前は長谷部一已。

まだ、新米車掌だ。

正確には「一巳かずき」と書くべきだったが、字が雑だったせいで書類には「一已」と登録されてしまった。

そのまま今日まできてしまい、

周りからは「イチヤン」と呼ばれることが多くなった。

名前に「○○ヤン」がつくのはベテランに多いが、彼の場合は名前からついたニックネームだ。

駅のホームには誰もいない。ただ、風が吹き抜け、遠くでシカが鳴く声が聞こえるだけだ。

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