「おい、汽笛ならしとけ」と、一勝地は冷たい空気の中、命じた。ボワんーという音が荒野に響く。彼の指示通りに、汽笛が風に乗って荒野に轟いた。「汽笛ならせ、どどろかせ〜我らさいほくの〜」と、楽しげに歌い始める一勝地。神宮寺はそれに心の中でため息をつく。
北海道道北エリアの広大な原野が広がる中、雪に覆われた山々が遠くに見える。寒空の下、白く息が凍るような冷たい風が吹きすさぶ。三人の男たちがキハ222と呼ばれる頼れる気動車に乗っている。キハ222はツートンカラーのローカル線気動車で、荒涼とした大地を進むその姿は、一艘の船のように見える。
神宮寺は長身で細身、鋭い眼差しを持つ男だ。彼の眼は全てを見通すかのようで、冷静沈着な性格を物語っていた。一方、一勝地はその対照的に、陽気で親しみやすい性格。彼の言葉遣いは荒っぽいが、それも彼なりの愛情表現だ。彼らの後ろには、クセの強いダミ声で案内をする三人目の男がいる。
「それなんなんすか?」と、若い男が尋ねた。「みんな歌えるぜ」と一勝地は自信満々に答える。しかし、その答えが彼の求めているものでないことは分かっていた。「知りたいか?」と、神宮寺は優しい眼差しで若い男に問いかけた。「どうせ一勝地さんが適当に作ったんでしょ?」と、不機嫌そうに返答する彼に、一勝地は「俺にそんな芸当あるとでも?」と返す。「それもそうですね」と若い男が言い返すと、「おい、師匠に向かって失礼だろ!」と一勝地が叱る。
その瞬間、神宮寺は得意のスンとした顔で薄く笑い、信号現示を確認する。「場内進行!」と叫び、ブレーキ弁ハンドルを巧みに操り、転轍機までに速度を落とす。「相変わらず適切な距離感だな。誰に教わったんだっけ?」と一勝地が尋ねるが、神宮寺は聞こえないふりをした。師匠に似たんですよとか、指導が良かったからですよと言えばいいのに言わないのが彼だった。
「しょうとんべつ〜しょうとんべつです。歌上方面今度の宗山バスは……」と、三人目の男が、一番後ろからクセの強いダミ声で、乗客に最低限の情報を伝える。
小屯別駅の停止位置を確認する。ホーム進入。停車制動に入る。このキハ222とは相性が良く、目をつぶってでも停止位置にもっていける気がする。実際、ブレーキ弁ハンドルは最低限しか操作せずにここまで運転できた。下手なやつほどバシャバシャと操作し無駄にエアーを使う。「速度30キロからの制動で調子乗んなよ!」と、一勝地の声が飛ぶ。「28キロです」と弟子は言い返す。「スーッ、ピタッ」と、ほとんど誤差なく停止。ブレーキも最低限しか使用していない。「定時」と、一勝地は苦笑いしながら思う。ほとんど無駄がない……何年目だよ……生意気なやつ……さほど悪い気はしなかった。
「来ませんね、大石田さん……」と、神宮寺は冷静に小さく言葉を吐く。いつもこんな調子だ。「駅長たしか今1人だからな、信号あいているし行くか」と、一勝地は楽しそうに返す。「そうですね!行きましょう!早く休憩したいですし」と、神宮寺は出発信号機の進行現示を喚呼しようとした。キャラにもないテンションで。別に神宮寺は休憩などいらない。彼は、寸前で動作を止め、「やれやれ」と、いつもの調子にトーンを戻した。「師匠、運転台頼みます」と冷たく言い放つと、次の瞬間には駅舎に向かって走り出していた。
神宮寺は言っている事と、やっている事が頭の中で一致しないことが多い。ゆえに、よく勘違いされる。しかし、長い期間接して、彼の本質を掴むと、つい暖かい目で見るようになる。そう、この不思議な若者に過去の尖った自分を投影するおっさん連中が、彼の周りになんとなく増え静かに支えるようになる。今回も同様に、
- 大石田さんに何かあったのではないか?
- 一刻も早く状況が知りたい。
- 駅で何かトラブルでも?
彼は一人で駅を守る彼を心底心配していた。
神宮寺がホームに降りて駆け出した直後、後ろからどうしようもない声が聞こえる。「ばあっ」……聞こえるはずのない近くの川の音が聞こえそうだった。「びっくりした?」神宮寺は流石に顔をしかめ、同じく顔に皺の刻まれた大石田の目を多少睨んで見た。(ばあっておい)もう神宮寺はいつもの空気を纏っている。全てを察した大石田駅長は、口をへの字にしながらタブレットを神宮寺に手渡し、「通票△」「通票△よし」と、神宮寺も復唱と確認をする。
運転台の小窓からこの様子を眺めていた一勝地に向かって、「お前の見習いには敵わないな」と、半分あきれながら叫ぶ。「大体はタブレットを受け取らずに発車させるのがオチなのに。独り立ちして3ヶ月目にこれやるとよく引っかかるんだけどな〜」「いや〜大石さん何時もすみませんね…ご協力いただいて。今回は発車してから全力で走ってタブレットを届けてもらうことなくてよかったです笑」
この駅から上音威母府駅方面に向かって発車するためには、信号機の進行現示とタブレットの表記を確認するのがルールになっている。今回はその遵守が行われているかの言わば抜き打ちテストだった。普段は絶対にやらないミスが、受け渡す駅職員がホームにいない・信号は発車せよ・師匠が行っちゃうかと言う。複数重なると揺らぐ瞬間が訪れる。そんな時に事故は大体起こるのであった。これまで新人に施してきた訓練では乗客に扮してみたり、ちょっとした木の柱に身を隠したりする程度のスタンバイで、ホーム上に待ち構えることがきた。しかし、周辺視野が異様に広く嫌にカンの良い神宮寺対策として、まず、線路から離れた死角に隠れる必要があった。次に、神宮寺達の乗る前頭部の位置を、列車が過ぎたら稚外方面への線路を越えホームにはい上がりスタンバイをする。定年が近い彼に簡単にお願いするような訓練内容ではなかった。どちらの異常時訓練だか分からない。師匠の声色が違う時点で訓練の可能性が高いと気付く神宮寺に、訓練を仕掛ける側の苦労は多い。
「大石さんありがとうございました」と、神宮寺は大石田の息遣いから、老体にムチを打ち、訓練のためにそれなりの距離を走ったこと。おそらく穏和な彼が独断で、新人イビリとしてやっているのではなく、訓練の意義は分かるものの、頼まれて仕方なく本人としては気乗りせずやっていることを読み取った。「おう!これで気を抜くなよ」と、大石田は少し声を弾ませて言った。
神宮寺が「大石さん」と呼ぶその瞬間、大石田の心には複雑な感情が湧き上がった。普段、自分が「大石さん」と呼ばれることは稀で、その呼び方にはどこか嬉しさと驚きがあった。
若い神宮寺が自分に対して気安く呼びかけるその姿勢には、少し生意気だなと思いつつも、その自然な親しみの込められた呼び方には、心のどこかで喜びを感じていた。長年の経験と責務がこうして後輩に受け入れられているという感覚に、わずかに誇りを持ちつつも、そのフレンドリーな呼び方に少しの驚きを覚えていた。神宮寺の呼びかけには、年齢を重ねた大石田にとって、新たなつながりの象徴とも言える一抹の嬉しさがあった。
列車は大石田を残して小屯別を出発した。窓から見える風景は、雪に覆われた広大な原野と、白く凍てついた木々が続いている。だが、その景色には微かな変化も見られた。日差しが少しずつ強くなり、雪原には淡い陽光の反射が見られるようになっていた。雪の下から少しずつ草が顔を出し、長い冬の終わりを告げるように、風景がほんのり春の気配を帯びてきた。雪の中にも、春の到来を予感させるわずかな息吹が感じられる。
列車は引き続き、大半は下り坂が続く区間を進んでいた。スムーズに曲線をこなしながら、しんとした静けさが広がる中を、キハ222は静かに進んでいった。神宮寺は運転台で、列車の揺れに合わせて体を動かしながら、外の景色をじっと見つめていた。雪の中に春の兆しが見え始め、広がる風景には冬から春へと移り変わる季節の変化が感じられた。一年の中でも特別なこの時期、長い冬の終わりを迎えようとしている風景が、未来への希望を感じさせていた。
一勝地は運転台で彼の横に立ち、柔らかな笑みを浮かべながら、列車は次の目的地へと進んでいった。
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